天の国籍
Ⅰ.天にある国籍
私たちは、だれでも生まれた国の国籍を持っています。聖書は、イエス・キリストを信じて神の子どもとされた人々の国籍について語っています。
◆ピリピ人への手紙3章20節
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
ここに書かれている「天にある国籍」とはクリスチャンに与えられる「神の国の国籍」のことです。福音書には、神の国に関するイエス様の教えや例えがたくさん記されています。新約聖書で語られている「神の国」は「神のご支配」を意味する言葉です。救い主を信じで罪赦され、神の子どもとされた人々には神の国の国籍が与えられます。イエス・キリストを通して、神の国に生まれたからです。ですので、クリスチャンはキリストが王として治める神の国の市民だと言うことができます。
私は日本国籍を持っていますが、その国籍は私の努力で得たものではありません。私に日本国籍が与えられたのは、日本人の両親のもとで生まれたという事実があったからです。クリスチャン一人一人に神の国の国籍が与えられているのも同じです。イエス・キリストを通して新しく生まれて神の子どもとされた、神様はその事実を認めて、私たちに天の国籍、神の国の国籍を与えてくださるのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われたイエス様のことばはこのことを教えています。
Ⅱ.天と地をつなぐ神の国
聖書は、神の国が天と呼ばれる霊的な世界と、地と呼ばれるこの世界に重なり合って存在していることを教えています。天にある神の国の一部分が救い主を通して、この世界にもたらされたと言うこともできます。天の国籍が与えられたクリスチャンは、天とつながっているこの神の国に生かされているのです。
◆エペソ人への手紙1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
天には私たちの魂が必要とするすべての良いものが備えられているのです。信仰、希望、愛、豊かないのち、それらはすべて神様が天から私たちに送ってくださる賜物です。
Ⅲ.王なるキリスト
この世界は権力と富、お金の力で支配されていると言ってもよいかもしれません。神の国の王であるイエス様はどうでしょう。イエス様は、荒野で試みを受けた時に、そのどちらも拒絶しました。神の国は、神様の一方的な恵みと愛、そして神様の義によって治める国だからです。イエス様は、ご自身がこの世界にこられた理由をこう語っています。
◆マルコの福音書10章45節
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
救い主は、人々に仕えるため、また、その人々の身代わりとなって十字架で死ぬために来たと言われたのです。神の国はそのように真実な方、愛と恵みに満ちた方が治める国なのです。
Ⅳ.罪と滅び
人間の長い歴史の中で、強大な権力を手に入れた多くの支配者たちが現れては消えていきました。彼らが築き上げた大帝国は戦争によって広大な地域を支配下に置き、栄華を極める時代もありましたが、やがて衰退し、滅びていきました。人間の罪は、国や文明に滅びをもたらします。権力や富、人間の知識や努力、あるいはどのような思想、哲学や宗教によっても、この罪の問題は解決することができません。
今、私たちが生きているこの世界はどうでしょうか?より大きな力と富、あるいは知識を手に入れたかもしれませんが、人間の本質は変わっていないように見えます。神様を認めずに、与えられている恵みを感謝することもなく、ただ自分たちの物質的な欲求を満たすために生きている人々がいます。また、日々の必要に追われてただただ忙しく働き、一瞬たりとも神様のことを考える余裕のない人々もいます。その一方で、戦争や災害、あるいは虐待にさらされ、生きるだけで精いっぱいの人々もたくさんいます。それが私たちの生きている世界の実情です。
神様は、世界のすべてを造られた方であり、人間をご自身の愛するパートナーとして造られた方です。その方に目を向けず、関係を持とうとしない私たちの罪に聖書は光をあてています。神様によって造られた人間は、神様との関係を失ったときに、魂の自由も失ってしまいました。全ての人が罪の力に囚われている、聖書はそう教えています。牢獄に繋がれている人は、自分で自分を自由にすることができません。
Ⅴ.キリストが流された血によって
救い主が来てくださったのは、そんな無力な私たちを救うためです。十字架の上で流された尊い犠牲の血によって、悪魔の手から私たちを買い戻すために、私たちを神の子どもとして、神の国に生かすために、天の国籍を与えるために、救い主は来てくださったのです。イエス・キリストは天から来られた方、父のみもとから来られた方です。この世界に属する方ではありません。イエス様は、天に帰って行かれる時に、目に見えるものは何一つ残していかれませんでした。
イエス様は荘厳な教会堂を建てるようなことはされませんでした。ご自身の偉大な業績を記した自叙伝も書くようなこともしませんでした。また優秀な人材を集めて、巨大な組織や団体を立ち上げることもしませんでした。イエス様の弟子となった人々の多くは、平凡な庶民でした。中には、周囲から虐げられていた人々、また、ろくでもない罪人たちもいました。弟子となって、イエス様についていったのはそんな人たちだったのです。イエス様が弟子たちに、残されたのは、ご自身が語られたいのちのことば、彼らと過ごした時間、多くの奇跡の証し、そして、天に帰って行かれた後に、彼らに送られたもう一人の助け主、聖霊です。
Ⅵ.人生という時間
イエス様がこの世界に属しておられないように、イエス様の弟子であるクリスチャンもこの世界に属していません。クリスチャンは、天とつながる神の国に生かされており、その国籍は天にあるからです。クリスチャンにとって、この地上での人生は、旅先でテントを張ってキャンプをしているようなものだと聖書は教えています。ここが目的地ではないのです。
もちろん、クリスチャンであっても、他の人々と同じように勉強し、仕事をし、友達や家族と余暇を楽しく過ごし、家庭を持ち、子供を育て、与えられた人生に目的を見つけ、有意義に生きようとします。しかし、クリスチャンにとっては、ここが安住の地ではないのです。
地上で与えられた私たちの人生は、神様を知るために与えられた時間です。神様と語り合い、神様とともに歩み、神様の願いを受け取り、それを神様といっしょに行っていくために与えられた時間です。私たちにとって、父と御子と聖霊の交わりなかに生きること以上に大切なことは他にありません。
私たちが心を尽くして神様を愛するときに、神様は私たちを通して、周囲の人々を愛してくださるのです。そして、そこに神の国が広がっていくと聖書は教えています。
しかし、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
私たちは待ち望んでいます。