スキップしてメイン コンテンツに移動

山に向かって目を上げる


私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。

主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

(詩篇121篇)


この世界のすべてを造られた神さまは、ぼくを造られた方でもある。

長い長い人類の歴史のこの時代に・・・

 ぼくの人生に焦点を合わせると・・・

  昭和32年〇月〇日、東京に、

   戦争を経験した父と母のもとに、

    三人兄弟の次男として、いのちを与えてくださった。

高度成長時代と言われる右肩上がりの時代に子供時代を過ごし、

 18才の時にクリスチャンになって、

  大学で油絵を先行して、

   卒業して、サラリーマンになって、

    26才でアメリカに留学して、

     アメリカから日本にいる妻に手紙でプロポーズして、

      帰国してから、29才で結婚し、

       何度か転職をして、

        脱サラして、学習塾と英会話教室をはじめ、

         二人の男の子と二人の女の子が与えられ、

子育てや仕事や、教会のことや、その他いろいろ山あり谷あり、

 あんなことしなければよかった、こうすればよかった・・・

  正直、そう思うことはたくさんある。

   でもね・・・今までずっと

    不思議に助けられてきたし、

     守られてきたし、たくさん与えられてきたし、

しみじみ良かったと思えること

  神さまと、妻や子どもたち、家族や友人たちに

   ありがとうと言えることがたくさんある。

あれよ、あれよという間に・・・時は流れていく、

61才になったぼくは、今でも山に向かって目を上げる。 

このブログの人気の投稿

天にある国籍

天の国籍 Ⅰ.天にある国籍 私たちは、だれでも生まれた国の国籍を持っています。聖書は、イエス・キリストを信じて神の子どもとされた人々の国籍について語っています。 ◆ピリピ人への手紙3章20節 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 ここに書かれている「天にある国籍」とはクリスチャンに与えられる「神の国の国籍」のことです。福音書には、神の国に関するイエス様の教えや例えがたくさん記されています。新約聖書で語られている「神の国」は「神のご支配」を意味する言葉です。救い主を信じで罪赦され、神の子どもとされた人々には神の国の国籍が与えられます。イエス・キリストを通して、神の国に生まれたからです。ですので、クリスチャンはキリストが王として治める神の国の市民だと言うことができます。 私は日本国籍を持っていますが、その国籍は私の努力で得たものではありません。私に日本国籍が与えられたのは、日本人の両親のもとで生まれたという事実があったからです。クリスチャン一人一人に神の国の国籍が与えられているのも同じです。イエス・キリストを通して新しく生まれて神の子どもとされた、神様はその事実を認めて、私たちに天の国籍、神の国の国籍を与えてくださるのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われたイエス様のことばはこのことを教えています。 Ⅱ.天と地をつなぐ神の国 聖書は、神の国が天と呼ばれる霊的な世界と、地と呼ばれるこの世界に重なり合って存在していることを教えています。天にある神の国の一部分が救い主を通して、この世界にもたらされたと言うこともできます。天の国籍が与えられたクリスチャンは、天とつながっているこの神の国に生かされているのです。 ◆エペソ人への手紙1章3節 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 天には私たちの魂が必要とするすべての良いものが備えられているのです。信仰、希望、愛、豊かないのち、それらはすべて神様が天から私たちに送ってくださる賜物です。 Ⅲ.王なるキリスト この世界は権力と富、お金の力で支配されていると言ってもよいかもしれません。神の国の王であるイエス様はど

神さまのまなざし

たとい山々が移り、丘が動いても、 わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、 わたしの平和の契約は動かない。 とあなたをあわれむ主は仰せられる。 (イザヤ書54章10節) ぼくたちがどこにいても、どんな時でも、たとえ目をそむけていても、 神さまはいつもぼくたちに目を向けている。 神さまのこころは、ぼくたちに語りかけたいこと、伝えたい願いではち切れそうになっている。 ときにはほほえんで、ときには涙を浮かべて、ときにはきびしい目で、ぼくたちを見つめている。 そんな神さまのまなざしに気づいているだろうか。 語りかけている小さな声に耳をかたむけているだろうか。 熱い願いを受けとめようとしているだろうか。 (写真:昨年夏、泊めていただいた十勝の友人宅の窓からの景色です。)

嵐の中にある平安

嵐の中の平安 Ⅰ.嵐のただ中にある平安 海外のある町での出来事です。その町の美術館では、毎年恒例の絵画展が開かれていました。その年のテーマは「PEACE」(平安)でした。大きなスポンサーがついて最優秀作品には、多額の賞金が与えられることになっていました。広告を見た多くの画家たちが「平安」を題材にした作品を描き、この絵画展に応募しました。のどかな田園、静かな森の小道、せせらぎ、夕日がしずむ穏やかな海辺、公園のベンチで寄り添うカップル、会場となった美術館には心を和ませる素晴らしい作品が何枚も展示されました。 展示会も最終日を迎え、いよいよ審査員たちによって、受賞作品を決めるための投票が進められて行きました。最後まで残った数枚はどれも素晴らしい作品でしたが、一枚だけ、とても「平安」を連想させるとは思えない、場違いな作品が混ざっていました。銅賞、銀賞、金賞、そして最後に、最優秀賞が発表されました。その結果に、参加者は驚きを隠しませんでした。最優秀賞を勝ち取った作品は、嵐にさらされる岸壁を題材としたあの絵だったのです。 暗雲立ち込める暗い空、天を切り裂く稲妻、海岸の岸壁に打ち付ける荒波、いったいこの絵のどこに「平安」があるのでしょう。その絵が何を描いているか理解するためには、じっと観察しなければなりませんでした。よく見ると、岸壁の中ほどに、小さなくぼみがあり、そこに雛を抱えた母鳥が見えます。雛たちは母鳥の翼の下で、安心しきって眠っています。確かに、そこに「平安」があるのです。この絵には「嵐のただ中にある平安」という題がつけられていました。 私たちは、だれでも、穏やかで平穏な人生を送りたいと願っています。しかし、その願いとは裏腹に、私たちは、様々な問題や思いがけない試練に遭遇します。長い人生の中では、自分の力では到底乗り越えることのできない、大きな困難に直面して、押しつぶされそうになるときもある、と思います。 「嵐のただ中にある平安」と題したこの絵の作者は、激しい人生の嵐を経験し、その困難な状況の中にも「平安」を見出したのだと思います。この作品が、他のどの作品よりも、見る人の心に訴えたのはそれが理由ではないでしょうか。 Ⅱ.シャローム イエス様は、たびたび弟子たちに向って「平安があるように」と語り掛け、天に帰って行かれる前に、「わたしの平安を残す」と約束されました。 ◆ヨハネの