Ⅰ.この世界の終わり
聖書は罪に満ちたこの世界に終わりが来ることを教えています。イエス様ご自身も世界の終わりについて、また滅びと裁きについて何度も語っています。次にお読みする箇所もその一つです。
◆ルカの福音書21章33節
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
このように聖書は滅びについて語っていますが、同時にこの世界に生きる私たちに、永遠の希望があることも教えています。聖書は、私たちに滅びと永遠の希望、その二つの選択肢があることを示しています。
この100年ほど間に、科学技術は飛躍的に発展して来ました。今、人間はかつてないほどの大きな力を手にしています。しかし、その力を自分たちを幸福にするために使っているかというと、どうでしょうか?
罪を持った人間は、どんなに知識を得ても、どんなに富と力を手にしても、自分で自分を救うことができません。世界を見渡すと、不正や欺きがまかり通っています。
自由を奪われ虐げられている何千、何億もの人々がいます。残虐な行為が見過ごされ、無数の命が奪われています。人間は100年前より幸福になっているといえるでしょうか?
手にした力が大きければ大きいほど、人間がその力を誤って使うならば、自分自身にも周囲にも破滅的な結果をもたらします。歴史もそれを証明しています。人間自らが破滅の道を選んできたようにも見えます。神様の守りと介入がなければ、この世界はすでに滅びていてもおかしくありません。この世界には人間の良心や正義では太刀打ちできない悪の力と罪が存在します。
Ⅱ.壊れた関係
聖書は、人間が本来は「うるわしい、愛すべき神様のパートナー」として造られたと教えています。創世記の1章では、神様がご自身の形に似せて人間を造られたと記されています。しかし残念なことに、人間は自分を造った神様との関係を壊し、そのうるわしい姿、神のパートナーとしてのアイデンティティを失ってしまいました。
聖書は神との関係を失った人間は霊的に死んでいると教えています。神から離れた人間、また文明はどこまでも堕落していきます。その行き着く先は滅びです。救い主は、その滅びから私たちを救い出すために来られたのです。
Ⅲ.開かれた門
神様が私たちのために備えた救いの道は、すべての人に開かれた道です。子どもにも、大人にも、貧しい人にも、富んだ人にも、病んでいる人にも、健康な人にも、文化も言語も異なるすべての人に開かれている門であり、また道です。イエス様は、ご自身がこの救いの門であり、また救いの道であると言われました。
◆ヨハネの福音書14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
Ⅳ.ただ一つの道
十字架にかかられ、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった方、イエス・キリストをただ受け入れるだけで救われる、それが、神様が備えた救いの道です。人間の能力や努力とはいっさい関係がありません。神様の一方的な恵みです。
まったく泳げない人が、乗っている船から海に落ちた時のことを考えてみてください。水深が何千メートルもある太平洋の真ん中であろうが、岸から少ししか離れていない浅瀬であろうが、足のとどかない深さであればおぼれてしまいます。深さはあまり関係ありません。罪をもった私たちの姿もそれに似ています。たまたま大きな罪を犯す機会がなかっただけであって、だれであっても、自分の限界を超えて追い込まれるような状況になったら、あるいは不意に大きな誘惑にさらされたら、考えられないようなひどい罪を犯してしまうかもしれません。
聖書は、目に見える人間の罪の行為だけでなく、罪を犯す引き金となる目に見えない性質や動機まで含めて罪と見なしています。イエス様はむしろ私たち人間の心の中の隠れたところにある罪を問題にされました。神様のパートナーとして生きる道を捨ててしまったところに人間のすべての罪の原因があると聖書は教えています。
◆ルカの福音書19章10節
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
人の子とは、救い主であるイエス様がご自身を指して使われた言葉です。最初にお話ししたように、聖書は、この世界が滅びに向って進んでいると教えています。それはこの世界が、造り主である神様との関係を失ってしまったからです。神様の目には、この世界も、そこに住む人間も罪の中に失われているのです。
この世界は造り主である神様を求めず、知ろうとしません。また神様が与えてくださったいのちを大切にしません。神様が与えた尊い価値を見出すことができないからです。神様の恵みに目をむけず、感謝しないばかりか、他の人々を傷つけ、自分自身を壊しているとしたら、神様が悲しまれないはずはありません。
造り主との関係を失ってしまった人間は、自分が何のために造られたのか、何のために生かされているのかを知ることができません。自分がどこにいるかも分からないのです。そんな私たちを捜して救うために救い主は来られたと聖書は教えています。
この世界が沈みゆくタイタニックであるとするならば、イエス・キリストは救命ボートです。ただイエス・キリストを信じるだけで、だれでも、なんの制限なく、無条件で乗ることのできる救命ボートです。
Ⅴ.ともにいてくださる方
この世界がどんなに嵐の中で揺り動かされ、混とんしても、イエス・キリストに信頼する人々には、希望が約束されています。この人生にあっても、やがて来る新しい世界にあっても、神様がともにいてくださるという約束が与えられているのです。
◆マタイの福音書28章18節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」