スキップしてメイン コンテンツに移動

聖書の「聖」


聖書は漢字で「聖なる書」と書きます。

この「聖」についてちょっと考えてみたいと思います。

聖、聖なる、聖い、聖別・・・それから聖絶なんて怖いことばもある

聖書に何百回も登場するこの「聖」という言葉ですが、

クリスチャンでない方たちは、どんな言葉を連想するでしょうか?

たぶん、聖人、聖殿、聖域、神聖・・・とか

なんだか人を寄せつかないような、近寄りがたいつめたい感じがしますよね。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によると

聖(せい)holiness

宗教の基本的概念の一つ。第一義的には神または絶対者,もしくはそれに類する神格の本質的属性であり,消極的には一切の不完全やけがれ,特に倫理的欠陥,罪の欠如をさし,積極的にはほかのいかなるものをもこえたその絶対性,特に万物の規範としてのその完全性をさす。このような超絶性は,人間に戦慄感と同時に深い魅力をも生じさせる。神以外の人間や事物も,この第一義的聖との関連において聖といわれる。

ん~分かるけど、なんだか難しい。


「聖」は神様の性質を表すことばなのですが、

「聖」は、まず神さまと神さまがお造りになったこの世界のすべてのものとを区別することばです。

そういった意味では、神さまだけが「聖なる方」です。


一方で、神さまはご自分の特別な目的のために物や人を選んで、それを他のものや人と区別して「聖なるもの」とみなします。

旧約聖書の中では、神さまは「聖なるもの」と「そうでないもの」とを区別されます。

でも、それはこの世界が人間の罪によって壊れてしまった後ことです。


その前は・・・?

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。

見よ。それは非常によかった。

(創世記1章31節)

・・・と書いてある。


なので、最初はすべては聖(きよ)かった・・・のです。

人間もこの世界も、すべてをお造りになった神様の目には、

完璧な、すばらしい、うるわしい作品だったのです。

「聖」は確かに完璧さを表すことばですが、

聖書の「聖」には「きびしさ」とともに「あたたかさ」があります。

神さまが愛情を込めてすべてをお造りになったから・・・。

神さまがお造りになったものに「いのち」があるから・・・。

お造りになられたこの世界を見て感動されたから・・・。

人間をとくべつな存在として他のなによりも愛されているから・・・。

だから「あたたかさ」があるのです。


聖なる方、すべてをお造りになった神さまが、

罪によって壊れてしまった(聖さを失ってしまった)

私たち人間とこの世界を

イエス・キリストを通して救い、

もう一度、神さまの目に聖なるものとし、

うるわしい神の作品としてまったく新しく造り直してくださる。


それが聖書の伝える中心的なメッセージです。

そこから考えると、聖書の「聖」をすこし理解する助けになるのではないでしょうか。

(写真:家の近くで見かけた早咲きの桜です。)

このブログの人気の投稿

いのちのパン

いのちのパン Ⅰ.空洞 忙しい生活の中で、ふっと、空虚な気持ちに襲われる、そんな経験はないでしょうか。また、むなしさや孤独といつも向き合いながら生きている、そんな方もおられると思います。 17世紀に活躍した有名な哲学者に、ブレーズ・パスカルという人がいます。パスカルは数学者、発明家、実業家としても多くの功績を残しましたが、イエス・キリストを信じるクリスチャンでもありました。そのパスカルが、次のようなことばを残しています。 人間の心には、創造主である神だけにしか満たすことのできない神のかたちをした空洞がある。 私たちのこころが孤独を感じ、むなしさを覚えるのは、ちょうど私たちのからだが水分を取らなければ渇きを覚え、食事を取らなければ空腹を覚えるのと似ています。 聖書は、神様が、私たち人間を、ご自身のかたちに似せて造られたと教えています。ご自身とこころを通わせ、いっしょに喜ぶことのできるパートナーとして人間を造られたという意味です。私たちのこころの深いところにある空洞は、人間が造り主である神様との関係を失ってしまった時にできた痕跡であるとパスカルは考えました。 人々は、こころの深くにポッカリと空いたその空洞を何かで満たそうと忙しく生きています。趣味、友達、仕事、結婚、子ども、ボランティア、宗教、お金、成功、名声・・・・あるいは、アルコールやギャンブル・・・。しかし、どんなに良いものであっても、あるいは、どんなに刺激的なものであっても、この空洞を埋めることはできません。しばらく、満たされたように感じても、その充足感はやがて消えてしまいます。 Ⅱ.Kさん もう何年も前の話しになりますが、ある時、友人の紹介で、一人の若い女性が私の事務所に訪ねて来ました。ここでは、Kさんとしておきます。Kさんは、初めて会った私に、たんたんと自分の身の上を話してくれました。お父さんがアルコール依存症で妻や子供に暴力をふるう人であったこと。お母さんが自分たち三人の幼い子どもを残して家を出てしまったこと。妹と弟のために、ずっと我慢してお父さんと同じアパートで暮らしてきたけれど、その生活に嫌気がさして、家族から離れ数年前に東京に出てきたこと。そんな身の上を話してくれました。 Kさんは、実家に残してきた妹さんと弟さんのことを心配している様子でした。都会の孤独な生活に疲れ果て、自分の人生をむなし

山に向かって目を上げる

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた主から来る。 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。 (詩篇121篇) この世界のすべてを造られた神さまは、ぼくを造られた方でもある。 長い長い人類の歴史のこの時代に・・・  ぼくの人生に焦点を合わせると・・・   昭和32年〇月〇日、東京に、    戦争を経験した父と母のもとに、     三人兄弟の次男として、いのちを与えてくださった。 高度成長時代と言われる右肩上がりの時代に子供時代を過ごし、  18才の時にクリスチャンになって、   大学で油絵を先行して、    卒業して、サラリーマンになって、     26才でアメリカに留学して、      アメリカから日本にいる妻に手紙でプロポーズして、       帰国してから、29才で結婚し、        何度か転職をして、         脱サラして、学習塾と英会話教室をはじめ、          二人の男の子と二人の女の子が与えられ、 子育てや仕事や、教会のことや、その他いろいろ山あり谷あり、  あんなことしなければよかった、こうすればよかった・・・   正直、そう思うことはたくさんある。    でもね・・・今までずっと     不思議に助けられてきたし、      守られてきたし、たくさん与えられてきたし、 しみじみ良かったと思えること   神さまと、妻や子どもたち、家族や友人たちに    ありがとうと言えることがたくさんある。 あれよ、あれよという間に・・・時は流れていく、 61才になったぼくは、今でも山に向かって目を上げる。 

一切れのパン

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、 ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言17章1節) わずかなものしかなくても それにこころから満足し、 すべてを与えてくださった神さまに感謝して、 自分と身近な人たちを大切にし、 神さまがゆるしてくださったように、その人たちをゆるし、 神さまや自分、家族や友人を傷つけた時には、 すなおに「ごめんなさい」と言える。 こころがおだやかで、 小さなことに、ありがとうと言える。 そんな人たちとの出会いがあった。