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永遠のいのちへの水

Ⅰ.天にある国籍 救い主が、この世界に来られたのは、すべての人のために救いの道を開くためであった。これは、聖書の教える確かな真理です。しかし、同じ聖書が、失われた人を一人一人、探して救うために訪ねていかれる救い主の姿を伝えています。 ヨハネの福音書の4章には、イエス様と弟子たちがユダヤからガリラヤに向う、その旅の途中で起こった出来事が記されています。 当時、ユダヤ人たちはユダヤからガリラヤへ行く時にはサマリヤを避けて遠回りをして移動しました。混血のサマリヤ人を汚れた者として蔑視していたからです。イエス様はあえてそのサマリヤを通って行かれたのです。 ◆ヨハネの福音書4章3節~29節  4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。  4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。  4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。  4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。  4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。  4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。  4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──  4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」  4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。  4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」  4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。  4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水
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いのちのパン

いのちのパン Ⅰ.空洞 忙しい生活の中で、ふっと、空虚な気持ちに襲われる、そんな経験はないでしょうか。また、むなしさや孤独といつも向き合いながら生きている、そんな方もおられると思います。 17世紀に活躍した有名な哲学者に、ブレーズ・パスカルという人がいます。パスカルは数学者、発明家、実業家としても多くの功績を残しましたが、イエス・キリストを信じるクリスチャンでもありました。そのパスカルが、次のようなことばを残しています。 人間の心には、創造主である神だけにしか満たすことのできない神のかたちをした空洞がある。 私たちのこころが孤独を感じ、むなしさを覚えるのは、ちょうど私たちのからだが水分を取らなければ渇きを覚え、食事を取らなければ空腹を覚えるのと似ています。 聖書は、神様が、私たち人間を、ご自身のかたちに似せて造られたと教えています。ご自身とこころを通わせ、いっしょに喜ぶことのできるパートナーとして人間を造られたという意味です。私たちのこころの深いところにある空洞は、人間が造り主である神様との関係を失ってしまった時にできた痕跡であるとパスカルは考えました。 人々は、こころの深くにポッカリと空いたその空洞を何かで満たそうと忙しく生きています。趣味、友達、仕事、結婚、子ども、ボランティア、宗教、お金、成功、名声・・・・あるいは、アルコールやギャンブル・・・。しかし、どんなに良いものであっても、あるいは、どんなに刺激的なものであっても、この空洞を埋めることはできません。しばらく、満たされたように感じても、その充足感はやがて消えてしまいます。 Ⅱ.Kさん もう何年も前の話しになりますが、ある時、友人の紹介で、一人の若い女性が私の事務所に訪ねて来ました。ここでは、Kさんとしておきます。Kさんは、初めて会った私に、たんたんと自分の身の上を話してくれました。お父さんがアルコール依存症で妻や子供に暴力をふるう人であったこと。お母さんが自分たち三人の幼い子どもを残して家を出てしまったこと。妹と弟のために、ずっと我慢してお父さんと同じアパートで暮らしてきたけれど、その生活に嫌気がさして、家族から離れ数年前に東京に出てきたこと。そんな身の上を話してくれました。 Kさんは、実家に残してきた妹さんと弟さんのことを心配している様子でした。都会の孤独な生活に疲れ果て、自分の人生をむなし

嵐の中にある平安

嵐の中の平安 Ⅰ.嵐のただ中にある平安 海外のある町での出来事です。その町の美術館では、毎年恒例の絵画展が開かれていました。その年のテーマは「PEACE」(平安)でした。大きなスポンサーがついて最優秀作品には、多額の賞金が与えられることになっていました。広告を見た多くの画家たちが「平安」を題材にした作品を描き、この絵画展に応募しました。のどかな田園、静かな森の小道、せせらぎ、夕日がしずむ穏やかな海辺、公園のベンチで寄り添うカップル、会場となった美術館には心を和ませる素晴らしい作品が何枚も展示されました。 展示会も最終日を迎え、いよいよ審査員たちによって、受賞作品を決めるための投票が進められて行きました。最後まで残った数枚はどれも素晴らしい作品でしたが、一枚だけ、とても「平安」を連想させるとは思えない、場違いな作品が混ざっていました。銅賞、銀賞、金賞、そして最後に、最優秀賞が発表されました。その結果に、参加者は驚きを隠しませんでした。最優秀賞を勝ち取った作品は、嵐にさらされる岸壁を題材としたあの絵だったのです。 暗雲立ち込める暗い空、天を切り裂く稲妻、海岸の岸壁に打ち付ける荒波、いったいこの絵のどこに「平安」があるのでしょう。その絵が何を描いているか理解するためには、じっと観察しなければなりませんでした。よく見ると、岸壁の中ほどに、小さなくぼみがあり、そこに雛を抱えた母鳥が見えます。雛たちは母鳥の翼の下で、安心しきって眠っています。確かに、そこに「平安」があるのです。この絵には「嵐のただ中にある平安」という題がつけられていました。 私たちは、だれでも、穏やかで平穏な人生を送りたいと願っています。しかし、その願いとは裏腹に、私たちは、様々な問題や思いがけない試練に遭遇します。長い人生の中では、自分の力では到底乗り越えることのできない、大きな困難に直面して、押しつぶされそうになるときもある、と思います。 「嵐のただ中にある平安」と題したこの絵の作者は、激しい人生の嵐を経験し、その困難な状況の中にも「平安」を見出したのだと思います。この作品が、他のどの作品よりも、見る人の心に訴えたのはそれが理由ではないでしょうか。 Ⅱ.シャローム イエス様は、たびたび弟子たちに向って「平安があるように」と語り掛け、天に帰って行かれる前に、「わたしの平安を残す」と約束されました。 ◆ヨハネの

天にある国籍

天の国籍 Ⅰ.天にある国籍 私たちは、だれでも生まれた国の国籍を持っています。聖書は、イエス・キリストを信じて神の子どもとされた人々の国籍について語っています。 ◆ピリピ人への手紙3章20節 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 ここに書かれている「天にある国籍」とはクリスチャンに与えられる「神の国の国籍」のことです。福音書には、神の国に関するイエス様の教えや例えがたくさん記されています。新約聖書で語られている「神の国」は「神のご支配」を意味する言葉です。救い主を信じで罪赦され、神の子どもとされた人々には神の国の国籍が与えられます。イエス・キリストを通して、神の国に生まれたからです。ですので、クリスチャンはキリストが王として治める神の国の市民だと言うことができます。 私は日本国籍を持っていますが、その国籍は私の努力で得たものではありません。私に日本国籍が与えられたのは、日本人の両親のもとで生まれたという事実があったからです。クリスチャン一人一人に神の国の国籍が与えられているのも同じです。イエス・キリストを通して新しく生まれて神の子どもとされた、神様はその事実を認めて、私たちに天の国籍、神の国の国籍を与えてくださるのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われたイエス様のことばはこのことを教えています。 Ⅱ.天と地をつなぐ神の国 聖書は、神の国が天と呼ばれる霊的な世界と、地と呼ばれるこの世界に重なり合って存在していることを教えています。天にある神の国の一部分が救い主を通して、この世界にもたらされたと言うこともできます。天の国籍が与えられたクリスチャンは、天とつながっているこの神の国に生かされているのです。 ◆エペソ人への手紙1章3節 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 天には私たちの魂が必要とするすべての良いものが備えられているのです。信仰、希望、愛、豊かないのち、それらはすべて神様が天から私たちに送ってくださる賜物です。 Ⅲ.王なるキリスト この世界は権力と富、お金の力で支配されていると言ってもよいかもしれません。神の国の王であるイエス様はど

ともにいてくださる方

Ⅰ.この世界の終わり 聖書は罪に満ちたこの世界に終わりが来ることを教えています。イエス様ご自身も世界の終わりについて、また滅びと裁きについて何度も語っています。次にお読みする箇所もその一つです。 ◆ルカの福音書21章33節 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 このように聖書は滅びについて語っていますが、同時にこの世界に生きる私たちに、永遠の希望があることも教えています。聖書は、私たちに滅びと永遠の希望、その二つの選択肢があることを示しています。 この100年ほど間に、科学技術は飛躍的に発展して来ました。今、人間はかつてないほどの大きな力を手にしています。しかし、その力を自分たちを幸福にするために使っているかというと、どうでしょうか? 罪を持った人間は、どんなに知識を得ても、どんなに富と力を手にしても、自分で自分を救うことができません。世界を見渡すと、不正や欺きがまかり通っています。 自由を奪われ虐げられている何千、何億もの人々がいます。残虐な行為が見過ごされ、無数の命が奪われています。人間は100年前より幸福になっているといえるでしょうか? 手にした力が大きければ大きいほど、人間がその力を誤って使うならば、自分自身にも周囲にも破滅的な結果をもたらします。歴史もそれを証明しています。人間自らが破滅の道を選んできたようにも見えます。神様の守りと介入がなければ、この世界はすでに滅びていてもおかしくありません。この世界には人間の良心や正義では太刀打ちできない悪の力と罪が存在します。 Ⅱ.壊れた関係 聖書は、人間が本来は「うるわしい、愛すべき神様のパートナー」として造られたと教えています。創世記の1章では、神様がご自身の形に似せて人間を造られたと記されています。しかし残念なことに、人間は自分を造った神様との関係を壊し、そのうるわしい姿、神のパートナーとしてのアイデンティティを失ってしまいました。 聖書は神との関係を失った人間は霊的に死んでいると教えています。神から離れた人間、また文明はどこまでも堕落していきます。その行き着く先は滅びです。救い主は、その滅びから私たちを救い出すために来られたのです。 Ⅲ.開かれた門 神様が私たちのために備えた救いの道は、すべての人に開かれた道です。子どもにも、大人にも、貧しい人にも、富んだ人にも、病んでい

山に向かって目を上げる

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた主から来る。 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。 (詩篇121篇) この世界のすべてを造られた神さまは、ぼくを造られた方でもある。 長い長い人類の歴史のこの時代に・・・  ぼくの人生に焦点を合わせると・・・   昭和32年〇月〇日、東京に、    戦争を経験した父と母のもとに、     三人兄弟の次男として、いのちを与えてくださった。 高度成長時代と言われる右肩上がりの時代に子供時代を過ごし、  18才の時にクリスチャンになって、   大学で油絵を先行して、    卒業して、サラリーマンになって、     26才でアメリカに留学して、      アメリカから日本にいる妻に手紙でプロポーズして、       帰国してから、29才で結婚し、        何度か転職をして、         脱サラして、学習塾と英会話教室をはじめ、          二人の男の子と二人の女の子が与えられ、 子育てや仕事や、教会のことや、その他いろいろ山あり谷あり、  あんなことしなければよかった、こうすればよかった・・・   正直、そう思うことはたくさんある。    でもね・・・今までずっと     不思議に助けられてきたし、      守られてきたし、たくさん与えられてきたし、 しみじみ良かったと思えること   神さまと、妻や子どもたち、家族や友人たちに    ありがとうと言えることがたくさんある。 あれよ、あれよという間に・・・時は流れていく、 61才になったぼくは、今でも山に向かって目を上げる。 

一切れのパン

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、 ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言17章1節) わずかなものしかなくても それにこころから満足し、 すべてを与えてくださった神さまに感謝して、 自分と身近な人たちを大切にし、 神さまがゆるしてくださったように、その人たちをゆるし、 神さまや自分、家族や友人を傷つけた時には、 すなおに「ごめんなさい」と言える。 こころがおだやかで、 小さなことに、ありがとうと言える。 そんな人たちとの出会いがあった。